サンタさん。
白い髭、赤いもこもこコスチューム。トナカイの引くソリに乗って颯爽と現れ、風と共に立ち去る。最早知らぬものなしのこの知名度ながら、よくよく考えると、どう考えてもおかしな設定のあるサンタさん。
そしてこのサンタさんの登場するクリスマスというイベント。
「キリスト教の聖なる夜」という設定なら、まだ百歩譲ってサンタという存在も正当化されそうな気がしないでもないのだけど、キリスト教の浸透率が甚だ低いここ日本においては、このイベントの茶番感は尋常じゃない。
しかしながらクリスマスのその磐石の安定感は揺らぐことを知らない。
カップルにはイチャつく口実を与え、社畜リーマン有するファミリーにだって一時の一家団欒がプレゼントされるとか、されないとか。
現代のサンタは資本主義の権化に成り下がっている。
そして我が家にもサンタはやってくるらしい。
一家の大黒柱たる私はそんなもの一ミリも許した記憶はないのだが、どうやら来るらしい。
私からは一切その話には触れたことはないのだけど、娘もどうやら勝手に自分の欲しいおもちゃがもらえると信じている。そう、正に信じるという言葉が相応しいほどに断固たる決意を持って、貰えると信じ込んでいる。
そうか、洗脳ってのはこういうことか。
幼稚園とか、実家とか、Youtubeとか。しかも街の至る所でクリスマスはクリスマスを祝わないものに罪悪感を浴びせてくる。悪いのは俺なのか?そう思わせるだけのパワーがクリスマスには宿っている。
そして祝うものには絶対的な安心感をもたらす。
なんだかんだ言ったって、結局のところクリスマスはモノをプレゼントし合わせて利益を搾取したいだけの企業戦略、この一言に集約されるはずなのだけど。どうやら世間ではクリスマスをDisることはタブーらしい。
なし崩しのクリスマスパーティー
まず妻は普通にこのサンタという不思議な存在の事実を受け入れている。
クリスマスにはプレゼントを貰えるもの、あげるものと思い込んでいる。唯一の救いは、もう自分はそこまで高価なものを欲しなくなっていること。ただ何故か子供にはあげなければならないと思っている。
ここで私がサンタの信憑性について一説をぶったところで、そんな周知の事実は最早なんの面白みもなく、それは家族の間に亀裂こそ入りこそすれ、何の幸せも生まないのである。
そう、私は愚行を犯すそんなおバカさんではない。
そして賢い私は結局トナカイの帽子を被り、近所で一番美味しいと噂のケーキを買い、せめてKFCではなくて、モスチキンを買うことで一矢を報いながら、当たり前のようにおもちゃを準備し、クリスマスを迎えるのである。
サンタさんの、本当の存在意義
しかしながら私もそこにクリスマスの本当の意味するところを見つけたのである。
言い換えるならサンタの本当の力といっても差し支えない。
なんと最近助長してきて手の付けられなくなった娘のワガママが、「そんな悪い子だとサンタさんが来なくなるよ」の一声でまるで淡雪のように消えてなくなり、またあの笑顔が素敵な愛娘が帰ってくるのである。
これぞ聖夜の奇跡。
あぁそうかサンタさん。あんたはこのために我が家に光臨してきてくれたのか。ひと時、本当にこの師走の忙しい時期だけに。いつもはわがままし放題の我が娘に言うことを聞かせるために。
そして正にクリスマスの夜の一家団欒はその集大成。 正に最後の晩餐。なぜなら明日からはもうサンタの力に頼ることなく、娘のワガママに対峙しなければならないのだ。
そんなことに思いを馳せながら食べる今年のクリスマスケーキはちょっと工夫を凝らしたビターな味がする。
わっしょい