父になるということ。自分らしく生きるということ。

子育て

常見陽平さんのブログを読んだ。

”いま、この地球(ほし)で父になるということ”

常見陽平さんという人物について

個人的な知り合いというわけではない。ブログを主として、その他の記事を読んだ事があるぐらいかな。

確か最初にブログを読んだ時は、ちょっとおちゃらけすぎていて、派手で、ふわふわしていて、何となくRSSへの登録をしなかったが、その後何度か記事を読む機会があって、Feedlyに追加した。今となっては更新の度に読む数少ない記事の一つ。

今でもおちゃらけているという印象は変わらないけど、書いている内容は結構しっかりしていて、思想も変に偏ってなく、バランス感覚が良い。

その割に名前だけで拒否反応を見せる人もいるようで、やや誤解されやすい類の人ではあるのかもしれない。

確かに自分の写真をアップして、自画自賛する光景は、冗談なのか、何なのか分からないところはあるな。

お子さんが生まれたようです

さてそんな常見さん、お子さんが生まれた模様。43歳と比較的高齢(奥さんの年齢はわからない)ということもあり、産まれるまでもだいぶ苦労されたご様子です。待望のお子さんなのでしょう。おめでとうございます。

そこで常見さんがその心情をブログにアップしているのだが、その言葉が普通であり、なかなか言えないことをさらりと言ってくれている。

父親らしくなるということ

43歳にして父親になった。いや、子供が生まれたという意味で、父親になっただけであって、これから少しずつ父親になるのだろう、私は。物理的な場所や所属を用意したり、獲得しただけでは「居場所」になりえないように、私が父親らしくなるのはこれからだろう。

父親に限らず、名前を獲得しただけで、そのように振る舞う人が世の中にはいる。

肩書を重要視して、中身よりも外側。結果を見るにしても、点数だけ見て、その点数に至るまでの努力、経緯を見ない。

同じ点数であっても、外からの評価の点数しか見ずに、個人としてどれだけ向上したのか、そこにこそ真価が問われるはずなのに。

父親なんだから。いい年なんだから。男だから、女だから。

そんなレッテル貼りを周囲にされながら、結局自分のなりたいようにしかなれない。少なくとも自分の思うこうだと思う父親には近づきたい。

子供を持つことでより社会への想いが強くなる

子供が生まれる前後で変わったことと言えば、社会への関心ということだろうか。社会の先行きは相変わらず不透明だ。

日本がどうなっても、大人自分一人であればどうとでもなる。

ただ子供はどうしても学校教育には入れなければいけない。流石に学校の中のことには口出しできないし、生活面を見ても、悪いものがあった場合、子供個人のスキルでは無視したり、回避したりすることできない。

だから親が事前に生活環境が良いところ、教育に力を入れている自治体にわざわざ引越したりもするわけで、社会それ自体について考える事が多くなる。

社会の風当たりの強いこと強いこと

制度だけでなくて、社会の風当たりも感じるようになる。子供を連れていれば、ベビーカーとか、子供の泣き声に肩身の狭い思いをして、そんな時に周囲から舌打ちの一つでも聞こえた日には、生きた心地がしない。

そういう問題それ自体はだめなことではあるが、今まではそこにすら目をやることもなく、気にもしていなかったという現実もあって、子供が出来るということは非常に大きな転換点なのだと思う。

ちなみに、常見さんは元々”意識高い系”という言葉を世に送り出したり、最近では”なぜ、残業はなくならないのか”という本も出しているぐらいで、労働、就活、社会問題については専門であり、子育てについても思う所あるはず。

今後さらにそのへんの知見が子育て分野に発揮されるのではと期待します。

大人である自分が好きなように生きるという決意

私も好きなように生きるよ。

子供には何して欲しい、どうなって欲しいという人は多くいる。

でもまずは自分がどうしたいか。子供がどうなるかなんて子供自身が考えること。

子供をないがしろにして、自分だけ楽しむのは罪であるかのような考えが今の世ののかには跋扈していて、息苦しい。

前提として、子供が飯食って、寝て、最低限のというか、親として出来る最高の生活をさせてあげるというのはあるけど、だからって親が我慢する必要はない。

むしろ親は最大限に自分のしたいことをして、そこに子供を巻き込めばいい。子供は親を選べないからこそ、親の責務は、”自分が”最大限楽しいと思うことを子供に見せてあげることなんじゃないか。

習い事をさせるにしても、何となく見栄えがいいから、脳の発達にいいって聞いたからじゃなくて、自分がやりたい、面白いと思ったから子供を付き合わせるぐらいの我儘っぷりでいいんだ。

名前はただの受け皿。キラキラネームは止めたほうがいい

キラキラネーム(と呼ばれるもの)をつける親の気持ちが理解できた。

そもそも名前にはあまり使わないような漢字をつかった、力強い名前にするつもりだ。かわいい名前にはしない。黙っていても、ウチの娘は美形だ。強い名前をつけるのだ。

一つだけ、このブログで賛同できないと思われるところだ。

キラキラネームをつける親の気持ちが理解できるのはわかる。けれども、それをつけるのはやはり止めたほうがいいんじゃないかな。名前は分かりやすいほうがいい。

ここではキラキラにするとは言っていないくて、単にあまり使わない漢字を使った名前ということだけど、それにしても名前が難しい人は、間違えられたり、何度も聞き返されたりするだろう。

私は名前の基本は識別子であると思うので、やはり識別するのが難解なものは避けたほうが良いという考え。肩書と同じで、名前は名前以上にはなりえない。

ただ一度名前が付けばほぼ一生はその名前と付き合っていくわけで、当然名前は記号以上の意味を持ち始めるのだけど、それは本人の努力と、運次第なのではとも思う。

いずれにしても、そこに親の思いを強くいれるというのは議論の余地はない。さてさてどんな名前にするのだろうか。

最後に

私は既に父親になって2年半ぐらい。まだまだと思うことも多いが、それでも父親というのがだんだん自分の中に入ってくる感じを覚えている。

特に最近は子供がきちんと”パパ”と呼んでくれるので、自分が思う以上にその事実を突きつけられているかもしれない。(やはりパパではなく、お父さんの方が良い)

それはもしかしたら親って役割をずっと続けていると、大根役者でもそのうち本当の親になれることを意味しているのかもしれないけど、

でもやっぱり、自分でこう在りたいと思う父親像に自らの意志で突き進んでいきたいと思う今日この頃。

わっしょい

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