世の中のマネジメント諸氏には大きな夢があるはずだ。
あいつを、こいつを掌で躍らせて、偉大なる結果を出す。そして自らは更なる高みへと上るという。
しかしながら世の中はそう上手くはいかないもの。面白くもない仕事を与えられ、名ばかりマネジメントとして部下からは突き上げられ、他部署との調整に板挟まれ、それはもう満身創痍。
それでも何とかまとめあげ、形にしたところで、上級マネジメントからは労いの言葉どころか、ネチネチと愚痴られ、皮肉を捨て台詞に絶望の淵へと追いやられるのが関の山。
そうこれぞ中年マネジメントの悲哀。
しかしながらそんな宝の持ち腐れマネジメントスキルを最大限に活かせるフィールドがこの世にはある。
そう、公園である。
子供と遊ぶことで問われるマネジメント能力の真価
公園で子供達と遊ぶ。
娘とその友人兄弟。7-8人といったところか。年は3-4歳。まだよちよち歩きのチビ助も混じっているけど。まぁいわゆる年少組って奴でそれなりに自我が芽生えていて、面倒くさくも面白い存在。
それに対してこちらは大の大人が一人。しかしながらこの年少からみた大人というのは偉大である。身長は自分の倍、体重に関しては5倍はあろう巨体である。
ボールを投げれば、尋常ならざる剛速球を放り(子供目線)、走り出せば誰よりも速く(もちろん子供目線)、鉄棒をくるくると回りだす(あくまで子供目線。本当はタダの前回り)。そんな偉大な存在が遊んでくれるその時間が楽しくないわけがない。
そんな偉大な大人(私)と子供との遊びは私にとっての遊びであろうか。否、これはむしろマネジメントなのである。
私のこれまでの集大成とも言えるべきマネジメントスキルを発揮し、こいつらを楽しませてやるのだ。
終わりなきかくれんぼ
この年の子供は単純だ。声の大きいもの、分かりやすくて楽しいものが好きだ。ルールも一応はあるが、そこまで徹底していないどころか、ルールはその時々、人それぞれに応じて柔軟にその姿を変えていく。唯一ルールがあるとすれば明るく楽しいものが正しいことぐらい。
じゃんけん。
何度もグーはチョキより強いと言っても、何故か負けて喜んでいる。誰が勝っても、誰が負けても、そんなことはどうでもいい。そもそもじゃんけんの定義が大人と子供では異なる。彼らは一緒にグーを、そしてパーを、さらにはチョキを、一定のリズムで出し合うこの一体感を楽しんでいるだけなのだ。
いずれにしても鬼ごっこの鬼は私なのだから確かにじゃんけんの結果など、どうでも良いのかもしれない。
そうこれが本当のマネジメント。手段に、ルールに囚われて、目的を疎かにすることのなんと無駄なことか。
目的はじゃんけんをルールどおりにこなすことではなくて、楽しく遊ぶこと。特に子供達が楽しく遊ぶことだったはず。そう彼らは私に教えてくれている気がする。
それならばじゃんけんのルールなど瑣末なことに囚われてはいけない。どうやってこのじゃんけんを楽しめるかに全力の注ぐのだ。
かくれんぼ
チビ助達に鬼なんてやらせても盛り上がらない。
だからとりあえず儀式としてのじゃんけんをして、一通り盛り上がったところで、「鬼だー」と宣言して勝手に追いかけ始める。そうするとキャーキャー言って逃げ出す。
かくれんぼについても、もちろん隠れきることが目的ではない。なんてったって、こいつら丸見えなんだ。頭隠して尻隠さずどころか、全身が、声が、全てが漏れ出している。
一応隠れる気があるのは、じっと木陰に身を寄せ合っている姿から感じ取ることが出来るが、隠れるという定義もどうやら大人のそれとはだいぶ異なる気がする。
ここでのチビ助達にとってのかくれんぼとは、隠れたフリをして、大人がそれを見つけて「わー」とか「きゃー」と騒ぐという遊びなのだ。
そしてマネジメントに求められるものはいち早く彼らの求める真のルールを見抜くことであり、ルールを正しくトレースして隠れている子供を見つけることなんかじゃない。見えないフリをしながら近づき、「どこだー?」と場を盛り上げることが重要なんだ。
自我と社会性のぶつかり合い、お砂場遊び
砂場には魔物が潜む。さっきまでご機嫌に遊んでいたのに、一度自分が使っていた道具を使われたりすると、一瞬で怒り狂う。
そのためここでのマネジメントは若干デリケートに進める必要がある。
勢いでこなせた鬼ごっこ、かくれんぼとは異なり、若干の調整能力と小芝居を打つ演技力が必要される。さらに個別の性格も大きく影響することから、すばやく個別の性格と状況を分析するスキルがあるとなおよろしい。
そしてここではあまり前面に立ってしまうことは避けたい。
あくまで謙虚に、そうは言っても一生懸命に遊びきること。
まぁ砂場では勝手に遊ばせておくというのも一つの手ではある。
「俺はまだ本気出してないだけ」
というマンガがある。一応映画にもなった作品なのでそれなりには有名だと思うが、読んでない方がいたら是非読んで欲しい。
特に人生を諦めかけている中年男性諸氏には是非とも読んで頂きたい作品である。
あらすじ
人生に悩むダメ男 静男の日常を描く作品。まぁこいつが絵に描いたようなダメ人間。何故か高校生になる娘まで居て、年金暮らし(?)の父親にパラサイトし、真昼間からワインなどを嗜む。
そして40歳を過ぎたある日突然仕事を辞めフリーターに。そしてまた突然にマンガ家になることを志す。
そこからの仕事はハンバーガー屋(設定はマックかな)のバイトをするも、それなりに働いているのにバイトリーダーにもなれず、次々と若いバイトに先を越されていく。遅刻はするし、給料の前借もする。なんなら娘にも金を借りたりする。
何故かすぐに出版社の担当がついていたりと、運に恵まれているところはあったりはするが、特に画力があるとか、構成力に優れているといった能力があるわけではない。女に好かれようとヤンキーに喧嘩を売ったり向こう見ずなところもある。
誰にも少なからずある願望にトライしてくれる静男
20代の頃なら笑って見られるが、自分も40手前になってくると、一歩間違えるとその道に踏み込みそうな気がして、若干笑えなくなってくる。
だって静男は一生懸命に生きている。ただちょっと不器用で怠け者なだけなんだ。
そんな静男は何故か公園内で子供達から監督というあだ名で呼ばれ、慕われている。対する子供たちは恐らく小学生ぐらいだろうから、下手すると馬鹿にされかねない状況でもあるが、彼は監督という絶対的な地位をその場所に築いているのだ。
そして最後、静男がこの公園を去るときがやってくる。子供達が号泣しながら送り出してくれる。
こんな存在がいるだろうか。
私が公園を、会社を去るときにどれだけの人が涙を流してくれるか。
- 公園はこの世の縮図である。
- 公園には世の中の序列は当てはまらない。
- 公園では子供達と紳士に向き合えるモノが偉い。
- 公園で得られる尊敬は、世の中の一般的なそれとは違うホンモノである。
つまり、公園でのマネジメントが、本当のマネジメントなのである。
そして私は今日も奴らをマネージしてやったと疲れきって家路に着く。
しかし彼らには充足した、満ち足りた表情が浮かんでいる。”してやった”と思っていたが、結局掌で弄ばれていただけだったのか。
まだまだ静男の域には達することは出来ない。
わっしょい