鬱なんて遠い異国の、そのまた遠く。そんな風に思っていた。別に今も鬱に困っているわけでは無いんだけど、何となく鬱っていうものが、それほど遠くにある感じはしなくなった。
直ぐ側にあるわけじゃないけど、一つ選択を間違えたらそこに行ってしまうような。
いつからそんなガラスのハートを持つようになったのか。歳を重ねると強くなるとばかり思っていたけど、それは事実だと思うけど、それ以上に世の中の色々が多すぎる。
自分のことを考えすぎたら鬱になる?
こんな記事を見つける
このブログ自体は前からたまに見ていたので、何となく著者の人の考えに共感を抱いていたのだが、今回は全く逆だった。
逆とはつまり、「人は人のことばかり考えていると鬱になる」と私は思っていた。
それはつまり人の評価ばかり気にしている人。
評価っていうのは文字通りの評価もあるけど、例えばSNSでの人の行動が気になったり、ブランドモノで周囲にアピールしないと気がすまなかったり、つねに周囲に踊らされている人。
多かれ少なかれみんなある。何より格言う自分も人の事は言えず。
自分のことは一切考えない
これは無理なんじゃないかな。自分の事を一切考えない人間ってこの世にいるのだろうか。それはあまり持続可能なものでは無い気がする。
要は何かに没頭しろってこと
この辺まで考えて、恐らくこの人と自分の考え方は似ているけど、使っている言葉が違うだけなのかと思うようになった。
もっと言えば、会社のメンバーひとりひとりに今よりもっと幸せになってもらうためにはどうすればいいのか、そんなことばかり考えています。
それでもまだまだだなと思う時があるので、今よりももっともっと他者のことを考えられるように精進していきます。
この方は文章、人と関わる仕事なので、他者のことを考えることが仕事のアウトプットに直結するのでしょう。それは自分のやりたいことだし、喜びを感じること。それって私の中の定義だと、自分の事を考える事と同義。
これがスポーツ選手だったら、まずは自分の身体をどう動かすか、どうやって試合に勝つか。
これが技術者であれば、より良い製品、サービスを作るのにどうするか、そんなことばかりに時間をかける。
ただ好きなことを、やりたいことやるってそれだけ。
やっぱり軸は自分においた方が分かりやすい。
単に言葉のチョイスの話だとしても、仮にどちらの言葉を使うのか考えたら、やはり”自分”を軸に考えた方が分かりやすい。
特に日本においては自分のこと、というより、自分が何に対して喜びを感じるか、悲しみを感じるかを軽視する傾向があるから。我々はもう少し自己中心的であっても良いはずだ。
それは周囲に迷惑を掛けるということでなく、自分を主張し、異なる価値観を、他者を受け入れるというそれだけの話。
結局のところ、人はああだこうだと考えすぎたら鬱になる。
他者を気にしたとしても、この人どうだろ。あの人どうだろとその反応にビクビクする。
自分の事を気にしたとしても、これで成功するかな、老後資金貯められるかなとビクビクする。
そんな生き方は鬱になる。
あの人も気持ちも、未来の自分も、自分ではどうしようもないから。
結局今の自分の行動に全力を注ぐしか無いのだ。
だから結局誰かの(自分含む)、何かに、没頭出来るっていうのが重要なんだろう。
まぁそれが一番むずかしいって話か。
わっしょい