子供が気付かせてくれた自分の限界。諦めから始める一歩

思うこと

何者をも恐れなかった小学生時代。

無限の可能性を信じた中学時代。

未来への希望しか見えてなかった高校時代。

刹那の快楽に走った大学生時代。

そんな時代を経て、40代を視野に入れた年齢になりました(まだ30代)。

この年代は、いつだって自分の限界を見せ付けられる、そんな年代。別にやっていないだけで、実際にはもっと出来ることってあると思うけど、そんなに全部に挑戦できるわけじゃないし、やらせてもらえるわけでもない。

とにかくやらせてもらえる機会が減る、そういう年代かもしれない。(やたら年齢制限に引っかかる!

限界を受け入れることが出来るようになりました。

これが20代、30代前半ぐらいは、まだできる、あれもできる、これも出来るって思えてたんだけど、なんか最近は限界を受け入れている気がする。

別にこれは悪い意味じゃなくて、諦めというより、そんなに肩肘張らずにあれも、これもってやらなくてもいいかという、腹をくくるっていうか、選択と集中っていうか。

むしろ自分で自分の限界に気付けるってカッコいい事なんじゃないかって勘違いもしてくる。

俺かっこいい。

まぁ本当にかっこいいのは、出来る出来ないじゃなくて、全力で何かを追いかける人。これは間違いなくかっこいい。

さらにいつか花開いたりすると、感動ストーリー。最高にかっこいい。

人は誰しも、右に行ったり左に行ったり、後ろ髪引かれたりしながら、結局本当に生きたい方向の斜め30度位に向かって歩いているのに、全力で真っ直ぐ進まれたりするとまぶしくて見てらんない。

でも不器用な私はいつも出来るか出来ないかの先に、どれだけ稼げるのかとか、下世話な考えしか頭に浮かばない、実は格好悪いやつです。

俺かっこ悪い。

それでもそんな格好悪さに気付けたんだから、まだ挽回はきくかな。

意識高い系中年の哀愁

実は若い頃はもっと意識高い系だったような気もする。意識高い系ってそもそもなんですかって話ですが、まぁその辺は適当にググってくだされ。

それでも簡単に説明すれば、走り続けて、より高みを目指していく。そんな感じ。

確か常見陽平さんがこの言葉を造っていたような。この方見た目はなんかミーハーで、自分大好きで相容れない感じはするんだけど、書いていることは結構しっかりしていて、地に足がついていて良い人っぽい。

「お前みたいなもんに上から目線で批評される筋合いはない」といわれるかもしれないけど悪口じゃないからいいでしょう。

さてちょっとそれたけど、そんな意識高い系だった時代はいつのことやら。最近は私も地に足をつけたいとそう思っているんです。別に意識高い系は総じて地に足をつけていないことは無いと思うけど、少なくとも私は浮き足立ってましたよ。ふっわふっわに。

英語力もITスキルも高めて、会計知識も最低限は身につけておかないと。

経営、マーケティングだって、必須。

マネジメント経験も積んでサラリーマン力を高めるのだ!って。(起業に傾かないところがポイントです)

そんな風に意識高く吠えていた時期もあったなー(遠い目)

意識高い系サラリーマンの行き着く先には興味なし

でもふとその先に行き着く世界が大して面白いものじゃないことに気付いてしまった。気付かない幸せってのもあるよなって思いながら、でも気付いてしまったんだからしょうがない。

別にそのこと自体に価値がないわけじゃないけど、自分があえて行かなくてもよくね!?と気付いてしまったのよ。

だって周りには論理的で、計算が速くて、地頭の良い方々がたくさんいるし、そういう人達に意識高いワールドの発展はお願いしたほうが何倍も効率的なのです。

宜しくお願いします、優秀な皆様。

子供が気付かせてくれた、自分のためにする仕事

じゃぁ仕事しないのかって、そんなことは無いわけで、比較的働くのは好きなほうです。

で、自分がやりたいこと、そういうことをしようと思うわけ。

当たり前なのか知らないけど、今まで仕事は誰かのためにするもんだと思ってた。でもこれが盛大な勘違い。

広い意味ではそれは間違いではないような気もするけど、誰かのためにする、イコール自分を犠牲にするみたいに脳内変換してしまってたなーと思う。誰も自分を犠牲にしろとか言ってないのになー。

暴れん坊将軍のわが娘に学ぶ

だって本当にね、3歳児はやりたいことしかしない。

泣いて喚いて、しかも最近は理不尽な理屈まで言うようになって、やりたいことを押し通す。

でも、それが人間あるべき姿なんじゃないかって思う。(みんなそれやったら悲劇だけど)

そして子供はめっちゃ笑う。泣くのも泣くけど、何でも無いことでいっつも笑っている

一説によれば、子供は1日に400回は笑うんだとか。確かに下手したらそれ以上笑っているかもしれない。

そんな風に日々笑っている姿を見ていたら、なんか頭の良い振りしているのがアホらしくなってもうた。それでやることを減らしていこうって思ってしまって。

やりたいこと、行きたい所もいっぱいあるけど、とりあえずやること、行くことそのものより、その瞬間を笑うことに全力をかけようかと。それができたら幸せなんじゃないかと、まるで老後のおじいちゃんの様な境地に達してしまいました。

それだったら無理せず、ずっと笑えるように生活を作り上げていくことに全力をつくしていこうと思うんです。

子供に時間を使えない仕事はやらない

まぁそういうことです。

もちろん一日中一緒にいることが出来るわけじゃないけど、せめて”犠牲”って言葉を口にする仕事には興味がなくなりました。

私の能力だと、結構なものを犠牲にしないと、サラリーマン社会についていけないんですよ。

仕事だけじゃなくて、勉強もして、遊びも全力でして、それに加えて飲み会にも行って。

別に好きでやっていたことが大半かもしれないけど、さすがにもう全部をこなす時間も体力もないからね。

そしてもう大体それで得られるものなんて大体予想がつくし。

限りある時間資源を何に使うか

結局今まで使っていた時間は無駄が多すぎて、自分のための時間のようで、誰かの評価を得るための時間だったような気もする。

週末をどうやって効率的に使うかなんて考えていたけど、子供の世話し出したら、そんなこと言っていられない。

大人だったら1時間で終わる買い物に、2時間、3時間かかって。しかも行きたい店にもいけず。

連休でもあったらちょっと旅行に行きたい気もするけど、子供連れて行くところってなると、場所が限られるから結局近場で済ませてしまったり。

本当に必要なもの以外そぎ落としていく

でもそうやって必要なものにそぎ落としていって、残ったものにフォーカスするのは満更悪い気はしないんですなー。

コーヒー飲むのにを全自動のコーヒーマシーン使うのもいいけど、ドリップしながらのんびり入れるのもいいわけです。

そこで短縮した5分で出来ることなんて、たかが知れているわけで。

というわけで、これからは出来ることをじっくりのんびり楽しんで笑っていこうと思います。

わっしょい

 


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