しばしのブログ休息時間。
ブログらしく、ブログのように、ブログのあるべき姿に。
SEO対策して、読みやすい見出しつけて、写真貼って。
色々と本を読んだり、他のブログも参考にしたりして、そういうブログらしい文章を書こうとしてきたけど、たまにきれいにまとまったと思うことはあっても、少なくともそれが自分のありのままの姿でないことは明確であるだけに、なんか知識に押し売りみたいな文章が好きにはなれない。
たまには書きたいことを、書き連ねるだけの文章でもいいんじゃないかと思う。
そう思いながらブログ界隈に目をやってみると、そこにはもちろん役に立つ情報はひしめいてはいるけど、読むための文章はあまり多くないことに気付く。そりゃ本当に文章を読みたい人は本を読むわけで当たり前なのだが、そんなに肩肘張らずに読めるブログには本一冊読むのとはまた違ったよさがあるんじゃないか。
ブログは本よりも著者の人となりがにじみ出ているし、その日の気分によって、話題によって、少し文体も変わって、それでも人間性は変わらなくて、気軽にさらっと読める、そういうのが好きなのかもしれない。
単に知識を仕入れるだけの、いわゆるググるという行為であれば所謂ブログらしいブログもそれはそれで良いんだけど、それはそれを生業とされる方々にお願いして、私はたまにはもう少し読み物にもならない書きたいことを書き連ねてみる。
初めて書いた文章
初めて外向けに文章を書いたのは小学校の作文だろうか。
今考えると、文章とか、本とか、活字自体は好きだったと思うけど、決して文章がうまい方ではなかった。
覚えているのは小学5年か6年の作文の授業。何故か長く書くことにこだわり、みんな原稿用紙数枚で提出するところを原稿用紙10枚以上の大作にしたてあげたことがあった。なんかその時はそれがすごいと思ってたし、無駄に話を長くすることにこだわった。
もうその原本はないからどのような構成にしたのか、何について書いたかすらも覚えてないけど、書いていながらも長くなるだけの文章に、ある種の達成感とは別に、「これを読む先生は大変だな」等という気持ちが芽生えた。そんなん思うぐらいなら綺麗にまとめてあげろという突っ込みは今だから言えることだけど。つまり自分でもつまらない文章だと気付いていたという、それはそれで立派な才能である。
文章を紡ぐということ
その時からうっすらとわかっていたけど、自分の中にある文章というか、思考の塊は、
いつも茫洋としていて、なんとも掴みどころがなく、結構な時間を書けて練ったとても、
一度文章にしてみると、どこか足りないような、どこか過剰なような、そんな気がする。
まるで旨味のない料理のようで、塩を加えても、砂糖を加えても、どうにも美味しくない。決して食べれないわけじゃないけど、美味しくはない。そんな感じ。それがダシを取ることで解決することを知ったときのように、文章におけるダシの存在をまだ知らない。
まぁダシを知ったらそれはそれで、その先には更に果ての無い料理の道があるわけで、文章にもダシがあるのか知らんけど、そりゃ一朝一夕にはいかない領域ってのはあるよなと思ったりもする。
そんなんだから、自分の気持ちなのに表現できない何かがあるとき、その気持を上手く表現している他人の文章に出会うと、無性に嬉しくて、小躍りしたい気持ちになる。
音楽と違って本当に小躍りするとタダのアホになるところが難しいところだけど。
言語を操る2歳児の脅威
話はさらに変わって我が自慢の娘。齢は2つと4ヶ月。
次から次へと新しい語彙を繰り出す。でももう、あの単語を覚えたとか、そういう所には驚きは感じなくて、接続詞の使い方とか、”てにおは”の使い方とか、なんとも説明が難しい微妙な領域に地味な驚きというか、言いようの無い成長を感じる領域に突入している。
そんな子供の語学力、言語能力に興味が尽きないのは、自分の気持ちを上手く表現できない自分自身のジレンマがあるからかもしれない。
わっしょい